臨済宗建仁寺派 神勝禅寺

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    体験・くつろぎ

    五観堂(神勝寺うどん)

    神勝寺うどんについての由来や食作法についてご案内いたします。

    含空院(茶房)

    永源寺から移築された築350年超の茅葺の建物で煎茶がいただけます。

    浴室

    七堂伽藍建築の一つです。

    拝観料について

    境内のご案内

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    総門

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    昭和42年(1967)に、京都にあった旧賀陽宮邸の門を移築したものである。
    総欅造りのもので、江戸時代には京都御所内にあったが、明治時代初期に三十三間堂の東隣、現在の京都国立博物館の前に移築された。第二次世界大戦後には、日本赤十字社の所有となっていたが、昭和40年に敷地および建物の処分・撤去が決定し、旧賀陽宮邸と共に開基が譲り受けたものである。旧賀陽宮邸は焼失してしまい現存しないが、門が創建当時を偲ばせる。扁額は建仁寺派管長小堀泰巌老大師の筆によるものである。

    多宝塔

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    鎌倉時代初期の名作、滋賀県大津市石山寺の国宝 多宝塔を模して建立された。均整のとれた姿は優美であり、屋根から天に向かって建つ相輪は特にこの塔の為に設計されており、その天蓋の風鐸が絶えず妙音が奏でている。
    多宝塔とは、釈迦牟尼仏が「法華経」を説いた時、空中に七宝の塔が現われ、塔中の多宝仏(東方の宝浄世界にいるとされる)が釈迦牟尼仏を讃嘆して半座を分けたと説かれることに基づいて造られた塔で、一般的には釈迦牟尼仏と多宝仏を祀るが、当塔は大日如来を安置している。

    慈正庵

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    當山第一世再住建仁大光和尚大禅師(道号 大光 法諱 慈正 俗称 森。大正5年4月22日、愛知県出身)の遺徳を偲ぶために建立された堂宇である。昭和2年 11歳で、当時の建仁寺派管長 古渡庵 竹田潁川老師に就き得度、以降建仁寺僧堂内で徒弟生活を送る。大学卒業後、梅林寺専門道場に掛搭、昭和18年建仁寺塔頭霊源院の住職を拝命。昭和31年には大学時代からの友人であった當山開基との縁により、パラグアイ共和国移民団の団長として渡海移住。昭和41年には新たに建立された當山兼任住職を拝命。爾来41年間に亘り霊源院並びに當山の檀信徒の教化 寺門の興隆に尽力。平成19年からは當山住職専任となり、90才を越えてもなお精力的に教化布教活動に取り組まれた。平成25年5月16日遷化 世寿98歳。
    建物は、滋賀県 臨済宗永源寺派蔵六庵の旧本堂を移築再建した物である。堂内には、佛師 江﨑明珠作の大光和尚坐像を安置している。

    永照院

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    開基が亡き母を偲んで昭和49年(1974)の17回忌の折に、奈良県大和郡山市慈光院の書院を模して建立された建物である。
    永照院は入母屋造の屋根に桟瓦の庇をめぐらし、十三畳の上の間と、中の間、下の間からなる。上の間には床・付書院を備えているものの、長押は省かれ、簡素で軽やかな意匠である。また全体に天井や鴨居の高さを低くしており、座ったときに安らぎや落ち着きが出るよう熟慮され、小高いこの場所からの庭園や山々の眺望は秀逸である。寺名は、開基の母の戒名より命名したものである。

    秀路軒

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    秀路軒は、天明の大火(1788年3月7日)で焼失した表千家の残月亭、不審菴およびその路地を、古図を基に中村昌生氏の設計により再現された茶席である。
    特に天明の大火のあとでは、表千家の建物や庭のあり方が変化したが、焼失前の姿は堀内不識斎によって詳しく描きとられ、他にも全体の間取図や茶室部分の詳細が少し伝わっている。それらによって、かなり忠実に復元されている。号は開基夫妻の名前に因んで神勝寺開山である元建仁寺派管長竹田益州老大師によって命名されたものである。
    現在の表千家と大きく異なるのは、残月亭の南側に不審菴が接して建ち、その南に露地がつくられているところである。内腰掛からまっすぐ不審菴へ向かって苑路がのび、その右側には大きな枯池が横たわっているのが、昔の露地の特色であった。
    この露地は中根金作氏の指導のもと、みごとに昔の姿が再現されている。この茶席は開基遺愛の席であった。

    一来亭

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    千利休が晩年に京都の聚楽屋敷に建てたといわれる一畳台目の茶室を、中村昌生氏の設計により復元されたものである。
    利休によって建てられた一畳台目の茶室は豊臣秀吉が嫌ったため二畳に改められたため、この当時の一畳半の茶室を伝える直接的な資料は無いものの、後になって千家3代宗旦の時に千家の地に造立した一畳半が、利休の一畳半をかなり忠実に再現したものと推測される。
    また、古図の中にも一畳半の茶室と六畳の水屋に勝手などを添えた間取りが記されており、これは聚楽屋敷の茶屋を伝えたものと思われる。宗旦の建てた一畳半を継承した三男の江岑(千家4代・表千家初代)は、それを平三畳台目の茶室に建て替えたが、その時江岑は一畳半の各部分の詳細な寸法・仕様を残している。
    このようにして、中村氏は千利休の聚楽屋敷に建てたと伝わる一畳台目の復元をここ神勝寺の一角で実現させたのである。

    鐘楼門

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    昭和40年(1965)創建当時の神勝寺の本堂であった旧西念坊の地にあった山門を、平成になりこの地に移築再建した鐘楼門である。
    無明院へと向かう長い階段を前にしたこの地に建つ山門は、楼上の鐘を撞きその鐘声を耳にするとで、参詣者に心の安らぎと心地よい緊張感を与える。是非とも一打合掌の心で静かに撞いて頂きたい。
    この鐘楼門には扉が無く、これは一切衆生が仏門に入る事を拒まない仏の大慈悲心を表すものである。

    無明院

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    昭和52年(1977)2月16日に建立された神勝寺の本堂である。
    本尊には浜田泰三作の弥勒菩薩像を安置し、院内には三百畳を超える本堂では神勝寺の年中行事のみならず坐禅や写経など様々な自己の研鑽の場として利用でき、また本道の向かい側には階段状の席とカメラやテレビモニターによって茶道の手前が手に取るように分かる革新的な造りの茶席である明々軒、一般的なものより単が低く造られた坐禅堂などがある。
    また境内には現世利益を祈願する護摩堂、ぽっくり往生を願う保久利堂などの諸堂宇が並び、さらに庭園は中根金作氏の作庭による枯山水庭園で他に類を見ない広大さで、無明院から庭に向かって右側より、「無明の庭」「阿弥陀三尊の庭」「羅漢の庭」と呼ばれる。
    境内全体が参詣者にとっての自己の研鑽と心の安らぎの場であり、開基の悲願の結晶とも言えるものである。また、開基を偲ぶ墓碑が本堂正面の小高い場所に建てられており、ここに集う人々をいつまでも見守り続けている。

    中根金作(なかね きんさく)(~1995年)
    1917年、静岡県磐田郡天竜村(現・磐田市)に生まれ。「昭和の小堀遠州」と称えられた日本の造園家、作庭家。
    静岡県立浜松工業学校(現・静岡県立浜松工業高等学校)を経て、一時外資系の企業に就職し図案を描いていたが、東京高等造園学校(現・東京農業大学造園科学科)に進学し、卒業後の1943年に京都府の園芸技師に任用になり、文化財保護課課長補佐を務めた後に退職した。その後は裏千家学園茶道専門学校講師などを務める傍ら、1966年に株式会社中根庭園研究所設立する。その他大阪芸術大学学長・浪速短期大学学長などを歴任した。その間、国内では足立美術館、国外ではボストン美術館の庭を手掛け、300近い庭園を作庭している。

    玄庵

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    無明院内で唯一の数寄屋造りの建物で、四畳半の小間と十畳半広間そして水屋からなる茶室である。階上には、絵をこよなく愛した開山のために造られたアトリエがある。
    露地は中根金作氏の作庭によるもので、無明院前庭の枯山水庭園とは趣を異にした茶席の庭であり、建物との境には建仁寺垣と呼ばれる竹垣を配し、壁面を檜皮張りにすることにより、落ち着いた侘び寂びの雰囲気の中で茶を楽しみ心安らぐ時を過ごすことが出来る。

    六地蔵

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    仏教の六道輪廻の思想に基づき、地蔵菩薩が輪廻の苦しみから衆生を救うためそれぞれの世界に堕ちた衆生を、六道それぞれの世界に応じて姿を変えて現れた地蔵菩薩が教導し一切の衆生の苦悩を救うといわれている。
    六道とは天道、人道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道のことであり、向かって右より、天道(日光地蔵)、人道(除蓋障地蔵)、修羅道(持地地蔵)、畜生道(宝印地蔵)、餓鬼道(宝珠地蔵)、地獄道(檀陀地蔵)のそれぞれの地蔵菩薩の姿である。

    浪切堂

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    陸上や海上の安全ならびに息災・増益などの現世利益を祈願するため、堂内で火を焚き様々な供物や護摩木を火中に投じて祈祷を行う護摩堂である。当堂の本尊として「浪切不動明王」が祀られているので特に「浪切堂」という。
    「浪切不動明王」とは、弘法大師空海が海上安全を祈らんがために自ら一刀三礼彫刻をし、尊師恵果阿闍梨の開眼加持を受けた霊尊である。大同2年(806年)10月弘法大師空海が帰国の際、玄界灘の荒れ狂う風と波に船は翻弄され、たびたび沈没の危機にさらされたとき、祈念し不動明王を示現した。火焔を放ち利剣を振って魔風を鎮め、荒波を切り開いて、船を無事博多湾に導いたのである。このことからこの霊尊は「浪切不動明王」と呼ばれるのである。

    保久利堂

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    「保久利」とは万葉言葉で、完全・円満・安穏を意味する言葉である。
    死ぬ時は長患いをせずに、ぽっくり旅立ちたいというような世に云う安らかな死という意味の「ぽっくり往生」だけではなく、現世においては安心を得て安穏なる人生が送れるように、そして後世においては阿弥陀如来の導きによって極楽での安穏なる時を過ごすことができるように、という二世の安楽を願う場である。堂内には、台湾の仏師 呉克明作の阿弥陀如来像が安置されている。

    鎮守堂

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    中国の伽藍神に起源を持つといわれ、日本の寺院においても仏教が伝わり、神仏習合が進む中で、寺院にも神祇が祀られるようになった。
    この伝統に倣う形で、当山に降りかかるあらゆる災い事を鎮め境内や伽藍を守る神として建立された。「弥勒の里天満宮」と称し、学問の神としても有名な福岡県太宰府の太宰府天満宮を勧請し祀っている。

    安楽堂

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    故人の遺骨を納め供養する場としてだけではなく、分骨して納め供養する功徳によって、より多くの福業を得、安楽に導くために建立された納骨堂である。 正面に阿弥陀如来、両脇に聖観世音菩薩を安置し、掛札には「仏説阿弥陀経」中の「極楽という国に住む人々は、一切の苦しみがなく、ただ様々な楽しみだけを受けるので、その国を極楽と名付ける」という意味の一節が元永源寺派管長篠原大雄老大師の筆により揮毫され、この一節から「安楽堂」と命名された。

    国際禅道場

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    臨済禅の教化布教の場として、国内のみならず広く海外にも門戸を開いた臨済禅の修行道場であり、日夜修行者が自己の研鑽に努めている。一般には非公開であるが、道場内には本堂 庫裏 禅堂(坐禅堂) 宿坊 開基堂などの伽藍が建ち並ぶ。
    本堂と庫裏は、昭和40年(1965)の神勝寺開山当時の本堂および庫裏であった旧西念坊を移築再建したものである。 本尊として仏師 江崎明珠作の弥勒菩薩立像が安置されている。また禅堂は、神奈川県鎌倉市 建長寺専門道場の禅堂(大徹堂)を移築再建したものである。境内奥には神勝寺開基故神原秀夫氏を偲ぶ開基堂がある。

    非佛堂

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    最初は、浄土信仰の象徴である阿弥陀如来を祀る「持佛堂」として建立された建物である。
    堂内に安置された阿弥陀如来立像は、開基の念持仏である。
    建物の設計は中村昌生氏によるもので、足利義政公の持佛堂であった銀閣寺東求堂を思わせる穏やかな姿に作られているが、銀閣寺のものよりはるかに大規模である。
    開基によって「非佛堂」と名付けられ、扁額の「非佛」は開基の筆によるものである。

    開山堂

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    神勝寺勧請開山益州宗進禅師の遺徳を偲ぶため建立された建物である。
    神勝寺勧請開山益州宗進禅師は、道号 益州、法諱 宗進、金剛窟と号す。俗称は土田のち竹田と改称。明治29年(1896)7月10日大分県国東半島に生を受け、11歳で滋賀県堅田町の祥瑞寺大友宗忠和尚について得度。大正4年5月に京都建仁寺僧堂に掛搭し、竹田黙雷及び竹田頴川両老師に参禅弁道、竹田頴川老師に嗣法する。
    祥瑞寺、大仙院の両寺院住職や大徳寺執事長を経て、昭和19年からは建仁寺僧堂師家、同29年には建仁寺派管長(第7代)に就任し教化布教に務められ、昭和40年には神勝寺の勧請開山となられた。平成元年6月20日に92歳で遷化。
    建物は、鎌倉時代の名作といわれる高野山の不動堂を模したもので、堂内には茶席がしつらえられるよう考慮されており、また京都の陶工村田陶苑作の開山像を安置している。扁額は、元円覚寺派管長松尾太年老大師の筆である。

    浴室

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    浴室は禅宗寺院の伝統的な七堂伽藍建築(山門・法堂・仏殿・禅堂・庫裡・東司・浴室)の一つであり、建物内には跋陀婆羅菩薩をお祀りしている。禅宗では「威儀即仏法」といい、日常の立ち居振る舞いすべてが修行の場であり、修行の上で「心」と「体」の垢を落とすという意味で、重要な役割を果たしている。この浴室は、国際禅道場における修行者の修行の場として建立された ものである。

    含空院

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    滋賀県 臨済宗永源寺派大本山永源寺より移築再建した建物である。
    含空院は、永源寺開山正燈国師(寂室元光禅師)の塔庵として永和3年(1377)一渓純庵主のとき、考槃庵の名で建立された。
    応永21年(1414)8月 ときの将軍足利義持公が永源寺来山の折、名を含空院と改め第3代松嶺禅師に額を寄進された。
    当時の建物は永禄6年(1563)の兵火で焼失し、正保4年(1647)第81代如雪文巌禅師によって再興されて以来、歴代住持の住居及び修行僧の研鑽の場であった。

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